オハイオ

第39回看護学生看護研究学会感想
35回生6番 soj
今回の講演及び学生の研究発表は私にとって大きな刺激となり、また、看護者としてこれから患者さんとその家族と接していく上で、とても大事な「気づき」を与えられたと感じた。これまで考えたことも無かったことが深く、胸に刻まれたような気がしている。人気女優が主演をするようなTVドラマにもなり、一般的な知名度も高い木藤潮香氏の講演は、患者さんのご家族の「思い」について考えさせられた、いや、考えたというより、その「声」に、無念であったこと、迷いがあったこと、後悔をしないためにどうすればよいかと、途方にくれながらも考え抜いたこと、そうして、娘さんがもう戻らないことへの無念さが、多岐にわたる話、時にがらりと変わるお話の数々から、モザイクのように、情感に訴える形で感じられた。その文字どうりの「声」はまるで黒人霊歌を歌う歌手のようであり、当事者のご家族が体験したことの、すさまじき重さと、後悔しないようにやるだけのことをやって尚残る無念さを知らされた。いくつも印象に残ることばがあった中で、「選択権のないあやは、大きな決断をした」というくだりが思い出される。あなた方も看護師になろうと決めた時に決断し、節目を作った事でしょう、その節目を作ることで次の(目標に向かっての時期を)ゆったり行ける。
しかしその節目を作る時には大きな力が要り、あやさんが(ここで具体的には養護学校に転校することだったのだが)行った決断も簡単なものではなかったし母である自身も(学校の教師に対して説明を求めるなど)毅然とした態度をとったのだ、と。
看護師というのはどういう職業だろうか、いったい何をすれば、立派な、までいかずとも、ひとかどの看護師といえるのだろうか。「飲水指導ではA師も看護師にも半ば諦めのような全く自立性の無い、看護師が自分の業務の為につけるという関わりとなってしまっていた」壇上の発表者の言葉に、目が覚めた気がした。第4群2のこの発表者は、医療の現場で当然のこととしてある光景を言葉にしてみせた。さらに涼しい顔で「看護師の行為というのはサポートであり大それたことではない、病気と闘う主体は患者自身であり、そこで希望を感じるかどうかは患者による」といった。希望を感じようにもそのきっかけとなる変化を体験できないでいる人に、そうして、決断をし、節目を作ることに迷いを感じている人の為に、何かアプローチするのが看護師なのではないか、と、そういう見方で、他の発表者の言葉を思い返してみると、3群の1禁煙できない患者さんにクラフトボックスつくりを促している発表者が、自身で患者さんに言わずに箱を作っていき、それを機に患者さんが積極的に話し始めた、というシーン。3群3の発表者がマイナス思考の統合失調症の患者さんに「私が、あった時よりは食事の量は増えていますよ」と発表者自身が自分が持っている精神障害者への偏見に気づいたあとで、患者さんに向き合って発した言葉がけのシーンなどに、看護者としての「気づきのセンス」というものを感じ、頼もしさを感じた。
数年前に「看護師となる」ことを決断し、木藤さんの言葉によればゆったりと次にいく段階の私自身も、医療現場ではいくつもの決断、に遭遇していき、自分自身も節目を迎えるのだろうか。個人的には看護という職業自体に希望を見出せるのかは怪しくなってきているが、「看護師は希望を与えるのでなく、患者と一緒に考え、感じることで、患者が希望を感じられる方向へ導くことができるのでは、、、という言葉を思いながら、「気づきのセンス」を磨いていければなと思う。