タイムオブザシーズン

*今の時代に必要な「学び」
看護学校に入ってから、つまり看護の専門教育を受けはじめてから「学び」という言葉をよく聞く.実習先のカンファレンスなどで、「よい学びになったと思います」「あなたの学びは何ですか?」という様に.「学ぶ」の連用形、「遊ぶ」が「遊び」になるように名詞として使われるのか.「学んだこと」でもなく、「学ぶもの」でもなく「学び」最もこれは看護界の指導的立場にある人の専門語などではなく、教育の世界では当たり前に使われている言葉なのだろうか.
 「今の時代」とはどんな「時代」なのであろうか.大きく括れば、ポスト・近代.実感できるミクロな見方なら「ポスト・失われた十年」「ポスト・バブル崩壊」のその先の「アフター9.11」のと、何段階も喪失感を感じさせる出来事を経て、幸せになる物語、大きな物語、を信じられなくなってきている時代なのではないか.それは人々の幸福感や人生の目標が今まで以上に個別化され、失われ、不確定になってしまっている時代とも言えるのではないか.
 若いうちに自我の統合や自己同一性を獲得することでもって、人が一人前になる.という、これまでの発達過程通りに成長することが、困難になってきているのではないか.
 確かに、今の子供も、昔の子供もそんなに変わりはしない.人間が数十年で変わるものではない.2005年の今も「スターウオーズ」が作られ、人気を博しているように、相変わらず人々は同じ大きな物語=神話が好きであるし、結局人は他者理解を求めるという潜在的願望を持っている.変わってしまったのは社会環境のほうであり、学校での教育も、この時代にマッチしたものにモデルチェンジしていけば、いろいろな問題も、おいおい解決していくのだと楽観視していくことも出来るのかもしれない.私たちは、例えばゆとり教育について、少しはなれたところからその是非を語ったり、マスコミで報道される所謂青少年犯罪について、ああでもないこうでもないと、ワイドショー的に軽く嘆いたり、驚いたような感想を持ったりしている.そして、「教育が悪い、厳しくすれば、いや、厳しすぎるのだ」などと高みの見物を決め込んで日々すごしている.
 だがしかし、教育の方法のひとつひとつ具体的なやり方については、もはや、誰にも分からないのだ.100年続いたうまく行っていた「教育」はもはや崩壊していることに、うすうすは皆気づいているのだ.変わってしまった社会環境のその変わり様は、あまりにも複雑で、原因と結果がどう対応するのかまったくといっていいほど分からない.ただ、言えるのは、人々が共通の人生の目標、共通の幸福感を持つことができないということを前提にしなければ、他人とは関われない.「教育」という、具体的な場所(学校、家庭、地域、病院もいれていい)で、人と人が関わるシステムを作らなければならない事を考える上で、このことは、とても重要ではないだろうか.
 冒頭にあげた「学び」.その言葉を言われた場所で、私が感じたのは、「学び」がほかならぬ自分自身の「もの」であり、看護実習で、何をするか、幾つも考えられる選択肢の中から、私は何を選択し、他者(=患者)と関わったかを問われているんだなということだった.其の時は、よくわからなかったけれども.看護の具体的な援助方法と、態度についてを問題にしているのだから、大きく間違ったことはしないのだが、ではそこで何が正しいのかという答えも、いくつかあり、その中で、他者が自己決定することをどう援助するか、そのためにどう他者理解をするか、関わる自分自身をどう自己理解するかと、考えを巡らせなければならないのだ、と、今は感じる.
 大きな物語のなかでの常識がなくなってしまっている今、「こうしておけば大丈夫、患者さんは満足している」と、簡単に考えずに、「今、これを選び取ったことは相手にとって正しいのか」と考えること「自分の位置」を想像し、かかわりの一つ一つをフィードバックすること、そうできるように、他者と多く関わり続けることが自分の「学び」を持つことになると、考える.(朝六時におきて一時間で書いた、大いに不満な内容)