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死ぬための教養 (新潮新書)

死ぬための教養 (新潮新書)

死生観を考えるために読んだ本
1、死をどう生きたか 日野原重明著 中公新書
2、死ぬための教養 嵐山光三郎 新潮社選書
死生観とは、死あるいは生死に関する考え方。またそれに基づいた人生観。ということだそうだ。今回、その死生観について考えるために、2冊の本を読んだ。日野原氏のものは自身が主治医として看取った患者さんのことを記してあり、嵐山氏のほうは、どうすれば死を受け入れることができるかを、死に関する本(その多くは闘病記といった類のもの)を読みながら探していくというような内容である。とにかく、死についてたくさんの事例にあたってみたくこの二冊をえらんだ。結果として、読前に考えた、死はその人独自のまったくパーソナルなものである。という感を強く持った。平たく言うと「いろんな死に方があるなあ」ということ。以下に印象に残った事を記す。

「死には2重の性質がある。そしてそのことが最も際立った特質となっている。人は他人の死を経験し感慨にふける。しかし、人間は自分の死を体験することはできない。」という一文があった。これは嵐山氏も“気づいた”と言っているように案外実感出来ないことなのかもしれないと思った。「出来事の当人にとっては、生に関する疑いのない行為としての出来事とはいえず、当人以外の人にとっての出来事にしか過ぎないのである。」「死は人生の出来事ではない、死の直前に人生は終わるのだから」なるほど。私たちはよく、「死んだらどうなるのか」、という問いを自身にも他人にもするが、その最後の死、の状態については、他人の死を外から観察することしか出来ないのであり、それは、意識の消失によりコミュニケーションが取れなくなることでしかない。生理学的な死を終えた後は、葬儀をし、焼き場で焼いて物理的になくなる、というように社会的な行事を行うことで、その人の死を確認し、文字どうり「死を分かち合う」のである。あの人は死んでしまった、と。
 けれども「死んだらどうなるのか」という問いには「死の意味」を知りたいという気持ちが込められているのではないかと思う。嵐山氏は余命僅かと知った人間の苦しみを、「痛みによる苦しみとは別に、死を受け入れる決意の葛藤」であり、「宗教を信じられず、情報や科学知識が広まった現在に生きる人」にとってはその苦しみを受け入れて「取り乱さない」ためには死ぬための教養が必要だ。といっている。そのために所謂「死にかけた」人々の本から学ぼう。としたと。教養がなくては死ぬに死ねない。と、これは嵐山氏の決意。
 日野原氏の本に出てくる、氏が「生きることの意味を教えられた」という人々はやはり著名人が多く、また聖路加病院に関わるということで、宗教をよりどころにしている患者さんが多い。そして、やはり、死を迎えた人々の葛藤、それぞれの「取り乱し」方について、ありのままに書かれてある。宗教をよりどころにしているからみんな安らかというわけではないことが伺える。氏と患者さんの会話のなかで、患者さんが見せた周りの人への配慮に氏が感動する場面が多く見られる。死を受け入れるということは、自分の死を他人がどう思うかと想像すること「もうお母さんには会えないと思いますから先生からよろしくお伝えください」というような言動に表れるのではないか。と思った。
 再び嵐山氏の著書より、北野武氏が事故後に書いた本に「死ぬっていうのは人生の終着点だけど、暴力的って言うか無理やり対応させれれるわけであまりにも一方的に向こうから来るもの」「準備は必要なんだけどあまりにも空しい努力だよね、何しろ死ぬために考えるんだもの」という一説があり、氏も同じ考えだと言っている。死について考え、まわりからみて立派な死を評価しそうになる(そのために立派に生きること)のが医療スタッフの、しかしたら偏った考えなのかもしれない、自分じゃ体験しない「空しい」努力を強いることは今の、宗教も、教養も不十分な自分には、まだ荷が重い。
それでも、考え続けることが大事かなと思う。